155 Reply For My Son AST MAIL URL 2002/07/07 00:25
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朝に辞す白帝彩雲の間
千里の江陵一日にして還る
両岸の猿声啼きて住まざるに
軽舟已に過ぐ万重の山
    --『早発白帝城』李白



まったく何という光景であろうか。
土色に濁った水がとうとうと大地を絶つ大河、長江。
緩やかなその流れが一転して激しく逆巻く。
両岸には、水面から鉛直に切り立って岸壁が峻り立ち、圧倒的な威容を持って迫りくる。
三峡の絶景は、古来よりこの中国の詩人をして数多くの詩を詠わしめた。
それほどまでに、この光景は見るものの目を奪い、魂を脅かす。
雄大という言葉でさえ表しきれないほどの大きさ、深さを持った自然の前では、一個の人間の存在など、なんともちっぽけで頼りなげに感じられる。
自分は、もはや一人前の男のつもりである。
単に年を重ねただけではない。
世界を渡り、あらゆる物を見聞して、自分自身を研ぎ続けていた半生。
未熟だった青年時代の自分を苦笑交じりに振り返ればなおさら、今の自分に多少は自負を負えるようになったと思っている。
それでも、この自然の前に立たされると、吹けば飛ぶような人間の小ささを突きつけられる気がしてならない。
だから、この国が好きなのだ、とも思う。
心の虚飾を剥がし、己と向き合える厳しく壮大な大地。
自らの魂に強烈に焼き付けられた衝撃を、筆に込める。

吼え猛り荒ぶる波涛を。
天を突く峻厳な岸壁を。
時を超えそびえる孤城を。


半ば呆然と、描き終えた絵に向き合う。
自分という存在を忘れ、ただこの大地のうねりを媒介するように夢中で走らせた筆跡。
もはや一筆も足す必要はあるまい。
目を閉じる。
心地よい疲労感と満足感。
再び目を開き、一瞬の名残を惜しむと、もはや振り返ることなく歩き出す。
瞳を閉じても、色褪せず息づく風景は、この心に、また一枚確かに写し取られた。



ふと古びた店先で目を止めた。
「…そうか。もうそんな時期だったか」
今月、忘れるはずもないその日。
悠然と流れる大陸の空気の中で、カレンダーをめくることを忘れていたが、まだ間に合うはずだ。
故国に一人残した息子の姿は、自分の瞳の中では幼き日のまま止まっている。
もう中学生になっているというのに。
どれほど長い間、自分は後に残した息子を省みなかったのだろう。
「一人前の男、か…」
絶対的な自然に浮き彫りにされた自分という人間の小ささ、裸になった心が、自嘲的な呟きをこぼさせる。
遠い異国でであった一人の心優しい女性を愛し、子供をもうける幸せを得た自分。
しかし、その彼らに自分は何をしてやっただろう。
己の道のために強いた犠牲を、独りよがりな満足のために忘れてはいまいか。
夫として、父親として、こんな男が一人前といえるだろうか。
知らず、頭が下がる。
無意識に手を当てた懐には、先日偶然会った長女がくれた、息子の写真。
母親譲りの優しい瞳が、新しい家族に囲まれて穏やかに微笑んでいる。
少年時代の自分の面影を微かに受け継いだ彼は、自分の知らないところで大きく育っている。
まだまだ子供だと思っている間に、いつしか一人でも確かに歩き始めている。
この息子なら、きっと大丈夫。
そう、あいつももう、一人前なのだ。
立派な男に、なろうとしているのだ。
そんな彼に、せめて伝えたい思いを。
「大きくなったな、太助…」



「…で、こんなもん送ってきて、どうしろっつーんだ、親父は…」
そこにあるのは、かなり年代ものの冠。
長い歴史を重ねてきたそれは…平たく言うと酷く傷んでいる。
「んで、なんて言ってるんだ、親父は」
「…自分で読めよ、那奈姉」
「えー、どれどれ?」

『ニィハオ、太助。
 中国の大地は凄いぞ。お前にもこの長江の雄大な流れを見せてやりたい。
 まったく凄い。この豊かな流れに身を投じて自然と一体になったらさぞ気持ちよいだろうと飛び込んでみたが、急流に流されて危うく海まで行きそうになった。
 はっはっは、やはり中国は伊達じゃない。』

「…阿呆か…」

『ところで、お前も誕生日。
 一人前の男の証として、この間見つけた貴重なものをやろう。
 あの劉備玄徳が最期を迎えた白帝城の門前で十五代も店を営むチョンミンさんから譲り受けたものだ。
 エリートである科挙に合格したものだけが被ることができる冠だそうだ。
 何を隠そう、チョンミンさんの祖父さんの曾祖母さんの甥っ子の三軒隣の幼馴染が手習いのご褒美に近所の耄碌じいさんにもらったんだがそのじいさんの五代前の親戚が長安で丁稚奉公をしていた時に知り合った酒屋の主人の兄が政府の役人で大臣のお供をして成都に出かけたときに夢枕に現れた諸葛孔明の弟子が預言したとおりに北に30里そこから東に30里さらに西に30里最後に南に30里進んだところにある大きな楠の木の下にある祠の前に落ちていたという非常に由緒正しいものだ。
 お前もこの冠が似合う立派な男になってくれ』

「…」
「…なあ、どの辺に由緒があるんだ?」
「俺に聞かないでくれ、那奈姉…」
「よかったですね、太助さま」
「…あ、ああ、そうかもな…」
「主殿、楊明殿の冠に似ていないか?」
「キリュウ、ASTの小説に楊明は出てこない…」



ある朝、ザックひとつの荷物を担いで三峡の宿場から旅立つ男の後姿が見られたという。

誕生日、おめでとう。
太助…。




あとがき

今晩は、ASTです。
時刻は0時を回って2002年7月7日。
Herzlichen Glueckwunsch zur Geburtstag, dear Kuuri-Kuuron!

なんだか、内容は「太助誕生日企画」みたいになってしまいましたが…。
一応関連して『誕生日ネタ』ということで。
156 Reply Re:For My Son グE MAIL 2002/07/07 14:00
cc9999
楽しく読ませていただきました。
ご苦労様です。

誕生日に息子のことを思う太郎助がいい感じです。
手紙は相変わらずぶっ飛んでいましたが

>北に30里そこから東に30里さらに西に30里最後に南に30里進んだところにある
>大きな楠の木の下にある祠の前に落ちていた
・・・同じ場所ですね(笑)
しかも落ちていたってなぜに?

では
157 Reply とてつもない… 空理空論 MAIL URL 2002/07/12 00:30
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いやはや、由緒というものを感じます。
何がって、一番に、太郎助自身の言葉、ですかね。
もはや何かの詩人のようにうおりゃーっと突っ走ってるように見えるのは、
彼独自の性格といいましょうか、すさまじい勢いを感じます。
手紙自体の内容も凄く…学者帽みたくな冠、
はてさて、どう扱ったのか気になってます(笑)
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